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「60年前に日本はアメリカと戦争をしたんだよ」という話をすると、若い人は「うっそー」という。先日、麻生太郎氏が朝鮮総督府の「創始改名」論で内外からブーイングを浴びたが、半世紀で真実が風化することもある。その反対に、日本人には厳重に報道統制がしかれていた原子爆弾に関する情報が、今次々に明らかにされている。どちらの場合も、足を踏まれた方はその痛みを忘れることはない。 前稿では、「ウォーナー伝説」は間違いだったという話を紹介したが、私は一連の文化財救済説はGHQが演じた壮大なマジックショウだったと考えている。だが、京都、奈良、鎌倉が爆撃されなかったのはまぎれもない事実だし、マジックの種と仕掛けが実に見事だったために、いまだに貴重な文化財がわが町を救ったと信じている人が多い。では真相はどうだったのか、吉田氏の研究の続きを紹介する。
「京都は原子爆弾のおかげで爆撃を免れた」という話には、私は正直言って本当にびっくりした。文化財保護と原爆、人間の良識と非情、善意と残酷、無傷と大量虐殺、通説と真相のあまりにも対立的な概念と話の展開に、すぐには頭の切り替えが出来なかった。そして、イラク戦争における国防総省と国務省との対立を彷彿させるような状況の中で、第2の恩人説も登場する。
第2次世界大戦の末期、ヨーロッパではドイツはすでに無条件降伏をしていたが、太平洋戦線では日本軍はまだ絶望的な抵抗を続けていた。この最終段階に、2つの大きな国家プロジエクトがぎりぎりで間に合った。超空の要塞と呼ばれた戦略爆撃機・B29 と原子爆弾の完成である。この頃、東京をはじめ本土主要都市はサイパン・グァムに配置された B29 編隊による激しい空襲を受けていた。
1945年5月、オッペンハイマー博士の執務室で「マンハッタン計画」に参加した科学者と軍人による秘密会議が開かれた。この時はじめて原子爆弾投下予定の目標都市が選び出された。議事録によれば次の諸都市が列挙されている。京都、広島、横浜、小倉、新潟。この内、最適のAA級目標として選ばれた2つの都市の理由を見てみよう。
京都 人口 100万を有する都市工業地域である。それは、日本のかっての首都であり、他の地域が破壊されていくにつれて、現在では多くの人々や産業がそこに移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的に大きいいう利点がある。
広島 陸軍の重要補給基地であり、また、都市工業地域の中心に位置する物資積み出し港である。広島はレーダーの格好の目標であり、広い範囲にわたって損害を与えることの出来る程度の広さの都市である。隣接して丘陵地があり、それが、爆風被害をかなり大きくする集束作用を生むであろう。
最も重要な基準は何か、それはまだ無傷の大都市という条件である。これは人類最初の原子爆弾を投下するに当たって、できるだけ正確にその威力を測定するためであった。しかもその威力がどの程度のものになるか、当の科学者たちでさえ判りかねていたから、その威力による被害がすっぽりと収まる程度の大都市を望んでいた。
1945年6月に米統合参謀長会議は「別命あるまでいかなる部隊も京都・小倉・広島・新潟を爆撃してはならない」という命令を出している。これらの都市は原爆の破壊効果測定に適した土地として"その日"まで温存するためである。
この目標選定委員会の「京都第一目標案」にスチムソンン陸軍長官が真っ向から反対を表明した。長官は国務長官の経験もあり外国通で、「正々堂々の態度と人道主義という信望」とがアメリカ外交の財産だという信念を持っていた人物といわれていた。
ここに、スチムソン長官(文民)対 目標選定委員会(軍人)という対立の図式が出来上がり、原爆投下命令(7月25日)が出る数日前まで2ヶ月近くにわたって、激論を繰り返すことになる。では何故長官がそこまで京都案にこだわったのだろうか。スチムソンは陸軍長官を辞任後に「原子爆弾使用の決断」と題する回想的な手記を雑誌に発表した。
『トルーマン大統領の暖かい支持を得て、私は示された目標地のリストの中から京都市を抹消したのである。京都は軍事的には相当重要な目標地ではあったが、そこは日本の旧都であり、日本の芸術と文化の聖地であった。われわれはこの町を救うべきことをきめた。』手記で使用された「a shrine of japanese art and culture」はその後のアメリカの公文書や他の人の回顧録でもキーワードとなった。
原爆投下の直後から、その無差別的破壊の残酷さゆえに、投下を非難する声がアメリカ内外からあがりはじめた。これに対するアメリカ政府の回答が「大の虫・小の虫」論という政治的責任回避のための弁明であった。そして、まさにこの議論の一環として書かれたのがスチムソンの手記であった。
スチムソンはトルーマン大統領への私信の中でこう書いている。『私が書いた小論は、次の世代を教育する責任を持つあのやかまし屋たち、すなわち教育者と歴史家たちが抱いている疑念に答えることを意図して用意されたものであります。』これが、20年ほど前からしきりに唱えられられるようになった「スチムソン恩人説」である。
長官の日記には、本当の反対理由が残されていた。それは次元の異なる国際政治論だった。当時、長官は原子爆弾の国際管理など、より政治的な問題を検討する暫定委員会の議長もつとめていた。長官は、目標の決定は合衆国が戦後占める歴史的地位によって左右されるべきだ、という見解をおもむろに表面に出した。トルーマン大統領との議論において、
『もし京都の除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう。京都への爆撃は、我々の政策が要求するもの、つまり、満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう。』と私は指摘した。
結局、最初の投下地は広島(8月6日)に変更され、長崎が候補地に追加されたることになった。ただし京都がその目標から除外されたのは、1発目と2発目の原子爆弾に関する限りのことだったのだが。次いで長崎(8月9日)に、京都は第三の投下地(8月17日)候補に延期された。
米軍は2発めの原爆を投下した後、8月13日までは原爆攻撃の準備を一時ストップして日本が降伏するかどうか、様子を見ていたという。そして8月14日には次の原爆投下のリハーサルをおこなっている。8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したため、京都は壊滅を免れたのである。
奈良と鎌倉の場合の場合はどうだったのだろうか。米軍は都市爆撃の目標として、日本の180都市をリストアップしていた。人口の多い順に東京(678万)から熱海(2.4万)まで並べられていた。
5.7万人の奈良は80番目、4万人の鎌倉は124番目に位置づけられている。そして、なんらの除外の対象とはなっていない。つまり、奈良も鎌倉も米軍の都市爆撃の目標に設定されていたが、まだ爆撃の順番が来なかっただけである。
「江戸の敵を長崎で討つ」というたとえがあるが、長崎は京都の代わりに(更に当日の天候の故で小倉の代わりに)犠牲になったとはよくよく運が悪いとしか云いようがない。
ある人は20世紀で最も大きな出来事として原子爆弾の使用を挙げているが、私は人類の歴史の中で最悪の出来事というべきだと思う。核分裂の原理はいずれ発見されただろうが、その力の兵器への応用と、大量無差別破壊を齎す実際の使用とは別問題である。
広島に原爆が落ちたとき、私はまだ小学生だった。占領下の日本では原爆報道は厳しく禁じられていた。その後の「ああ許すまじ原爆を」運動は左翼政党のプロパガンダに利用されていたので、素直に同調できないできた。まあ、これは言い訳に近いが、原爆についての私の知識はまことに貧しいものである。
太平洋戦争のあの時点で、本当に原爆を落とす必要があったのか、日本人は自分史として真相を知る権利があると思う。
イラク戦争では米軍はヒロシマ効果を狙って「ショックと恐怖作戦」を行った。ブッシュ大統領は科学が進歩したおかげで精密攻撃が可能になり、太平洋戦争のときとは大違いで民間の被害が少なくなったと演説した。これは大間違いで、民間を爆破すれば戦意をくじくとわかって、わざわざ焼夷弾を使用した殲滅作戦に切り替えたことは、防空頭巾をかぶって逃げ惑った日本人なら誰でも知っている。
ラムズフェルド米国防長官が、地下に貯蔵された生物・化学兵器を効果的に破壊するため、小型核兵器が必要だと言っている記者会見で、食い下がる新人記者に「研究だけだ」とどなる姿がニュースで流された。
その後直ぐに、爆発力5キロトン以下の核兵器の研究・開発を禁じた「ファース・スプラット条項」の廃止を盛り込んだ2004会計年度国防権限法案(国防予算案)が米国会で可決された。
研究すれば開発したくなる。開発に成功すれば試したくなる。このことの証明がヒロシマである。そして、使える核爆弾・戦術核はアメリカだけが持てるという虫の良い考えは通用しないだろう。パンドラの箱を開けた世界はどうなるのだろうか。
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●坂本 互(さかもと わたる)
元タクシーサイト代表取締役社長、現在タクシーサイト顧問 元タクシー問題懇談会会員 元イースタンモータス常務 株式会社システムオリジン顧問 東京におけるタクシー向けコンピュータシステムの草分け的存在
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