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平安時代の人々はとても迷信深かったようだ。いな、彼らにとってはそれは迷信というより生活の規範そのものだった。 結婚式は大安の日に、友引の日にはお葬式をしない等、その幾つかは現代にも生き残っている。 そもそも平安京は初めから怨霊の支配する都であった。怨みを持って死んだ高貴な人の亡霊が人々に祟るとする怨霊信仰がさかんになるのは平安初期の頃からである。 その代表格が桓武天皇の弟の早良親王の怨霊である。始めは怨霊はおおむね自分を死にいたらしめた相手にだけ祟るとされた。 ところが平安遷都まもなく、天災が起こるたびにそれを怨霊のしわざだとする噂が広まるようになった。 怨霊は恐ろしい祟りを起すが、怨霊をまつる人は怨霊の加護をうけて御利益を得られるともされた。 そこでこの時期に貴族以外の民衆は怨霊にことよせて政治批判を行い、あちらこちらに怨霊をまつる小社をつくった。
朝廷としてもそのような動きを放置できず、自ら怨霊をまつる御霊会(祇園祭)を始めた。 文献上の初見は863年で、怨霊に祟られる立場の藤原氏の総帥がその儀式の監督に当たった。祀られたのは政争に敗れた6人の霊であった。 朝廷は御霊会を行う理由として次のように述べている。その年の春から疫病が流行し、それは京都から地方に広まった。 これは崇道天皇以下の御霊の仕業であるので、さまざまな芸能を行って死者を慰める祭りを行うというのである。
道真の死(903)後、日本の各地で疫病が流行し、洪水や旱魃が起こり正月年賀の行事も中止が続く。 巷ではこれが不遇の最後を遂げた道真のたたりではないかという噂がささやかれ始める。その後左遷に荷担した公卿が次々と亡くなる。 906年大納言藤原定国。908年参議藤原菅根。彼は道真を救おうとした宇多法皇を御所の門で阻止した敵役No.2である。 『扶桑略記』などを見ると、この頃から、日食・月食・彗星・落雷・地震・旱魃・洪水・火事・伝染病の流行といった記事が毎年のように目立つようになる。
908年4月には道真追放の張本人であった藤原時平が病に倒れ、半年後にこの世を去る。時平の死ぬ前、時平の耳から青龍が出現し、時平を悩ましたという噂が流れた。 まだ39才の若さであったため、これは道真の怨霊によると考えられた。912年には道真に代わって右大臣となった源光が狩りの途中に泥中に落馬して不慮の死を遂げる。
915年醍醐天皇が疱瘡に倒れ,京の中には結核が流行する。923年には皇太子保明親王が21歳の若さで死去する。 生母は時平の妹である。『日本紀略』には「世を挙げていう、菅の帥霊魂宿怨の為すところなり。天下庶人悲泣せざるなし、その声雷のごとし。」と記されている。 これが道真の怨霊について正式に記述された始めての文献である。
醍醐天皇は道真処分の誤りを公式に認めて,道真の官を元の右大臣に戻し,正二位を追贈し、併せて道真を左遷した詔を破棄した。 また長雨と疾疫鎮圧のため年号を延長と改められ,大赦の令が発した。 醍醐天皇の怨霊に対する畏怖の念は,道真の宿忿を慰撫するための具体的な行動となって現れる程になっていたのである。 後任の皇太子として、わずか3才の慶頼王をたてるが、これも5歳で亡くなってしまう。生母は時平の娘である。
そして、圧巻は930年に起きた前代未聞の出来事である。旱天が続くので諸卿が殿上に侍して請雨の件で会議していたところ、俄に雷鳴し清涼殿の第一柱に稲光が走った。 この落雷で大納言藤原清貫を含む3人が感電死し、清涼殿は炎上する。醍醐天皇はこの事件のショックで病床に着いてしまう。 半年後、死期を悟られた天皇は寛明親王に譲位(朱雀天皇),左大臣の忠平に摂政のことを依託し,46歳を以て崩じる。
この事件は道真を史上初の「人神」たらしめ、その霊威は朝廷の権威さえ超えることを認めさせるに十分だった。 そして、世はすでに争乱の兆しさえ見せ始めていた。落雷から8年後、関東に「平将門の乱」、西海に「藤原純友の乱」が勃発し、将門は「新皇」と名のる。 古来、天皇の位はその地位にあった者もしくはこれに準ずる者から指名されるものであった。 では、だれが将門を「新皇」に指名したのか。これが八幡大菩薩(応神霊)であり、その辞令を書いたのが菅原道真公の神霊だったのである。
道真公はなんと国家への謀反人を支持したのである。朝廷と摂関家にとっては幸いなことに、二つの乱は翌年に平定される。 京では、道真公の由緒探し(いかなる神なのか)が始まっていた。かつて道真のライバルであった文章博士三善清行の子に、日蔵道賢という真言密教僧がいた。 清行は道真公による異変が始まるとすぐに、道賢を吉野金峯山に送り込んだ。道賢は26年の猛修行の後、冥界を経巡る。
蔵王菩薩の導きで、天上では「太政威徳天」となった道真公に会い、「慇懃に祀るなら、怒りを鎮めよう」との言葉を聞く。また地獄では、急死した醍醐天皇と会う。 この前帝からは自らの罪を認め、深く悔いる言葉を聞く。 さらに醍醐の父であり今や満徳法主天となった宇多法皇とも会い、清涼殿に落雷させたのは「太政威徳天」の第三使者・火雷火気毒王のしわざであり、 醍醐天皇を死に至らしめたのも「太政威徳天」の意志だと聞かされる。
この道賢の冥界行の翌年、神憑かりしたある一介の京女が始めたのが北野御霊会である。 この北野の地にはすでに例の雷神としての「天神」が祀られていた。古来からの「天神」の上に、菅原道真の神霊が乗っかったのである。 これが北野天満宮として発展していく。その経過は祇園社のそれと全く同じであった。
平安中期、故道真についに最高位の正一位太政大臣が追贈される。道真の怒りは完全に鎮静化し、以後むしろ王権の守護神とされていく。 天満宮を積極的に支援したのは摂関家であった。それからは、絶大な和魂としての天満宮が始まる。 平安後期から鎌倉時代にかけて全国に天満宮が勧請されていく。従来の「天神」が「天満天神」に代わればよいのであるから、話は早い。
農耕の神としての「天神」は都市とは違い、従来から「恵みの神」であった。「布教」の手段が「縁起絵巻」であった。 道真公の生涯をわかりやすく話し聞かせることが「布教」なのである。天満宮は、儒学(学問)、そして詩文の神として拡がる。 これが「天神講」である。そこでは管弦、歌舞、詩歌の楽しみがなされた。室町時代には連歌会が盛んに行なわれるようになる。
中世における神仏習合では、天神様は「十一面観音」の垂迹(化身)とされた。これは実は「人である道真公がなぜ神になれたか」の説明でもある。 道真公はもともと神(観音)であったと言うのである。「絵巻」での道真公の生涯は、そういう観点で作られている。左遷や怨霊化まで、予定事項として書き込まれてさえいる。 なかなか、ただの人が神にはなれないのである。
また、鎌倉後期には、禅宗が天神様を取り込む。「渡唐天神」と言うのだが、天神様が禅を志され、唐に渡られたという話だ。 こういう神仏(密教・禅宗)儒の習合神として、いまの天満宮に続いているのだが、全国ではその数は14000社にのぼると云われている。
【追記】 天神様の謎解きをしているうちに、私は日本史の中で菅原道真ほどの面白いキャラクターはそういないのではないかと思うようになった。 それなのに、今までドラマや小説に取り上げられていないのがむしろ不思議でならなかった。 5月の中ごろ、NHKの「その時歴史が動いた」に菅原道真がとうとう登場した。 番組の中で、松平さんが「実は、私も道真が偉大な政治家だったことを知らなかった」と語っていたので、ああ不勉強なのは私だけでなかったと安心した。
NHKはこの番組に関して、昨年11月から12月にかけてアンケート調査を行っている。 「日本の歴史を動かした」とあなたが考える歴史人物を20人選んでくださいという方式である。でも、この中の50位以内に菅原道真は出て来ない。 つまり、日本人全部が私レベルだったということである。
それなのにあの人気番組に取り上げられたのは、平安朝と現在の日本に時空間を超えて共通するなにかが存在するからではないだろうか。 政権を取り戻すためには手段を選ばない藤原氏。そして財政的に破綻していた律令体制を救う処方箋を書いた道真。 四面楚歌の状況の中で政治・財政改革を押し進めようとしたが抵抗勢力に押しつぶされる。なにか、日本の政局の行方を暗示しているようだ。
私のコラムは取材内容の質と量ではとてもNHKにはかなわないが、眼をつけた時期とタイミングだけは、NHKの上を行ったのではないかとちょっといい気になっている。 硬い題材を我慢して読んでくれた方々に感謝。
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●坂本 互(さかもと わたる)
元タクシーサイト代表取締役社長、現在タクシーサイト顧問 元タクシー問題懇談会会員 元イースタンモータス常務 株式会社システムオリジン顧問 東京におけるタクシー向けコンピュータシステムの草分け的存在
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