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これが駅? 京福電鉄北野線の御室駅は驚くほど古風な姿をしている。 この駅を出て緩やかな坂道を行くと雄大な仁王門が聳えている。真言宗御室派総本山仁和寺である。 「人が何故神になれたのか」という歴史の謎を解く鍵は、この京都北部の広大なお寺にあった。仁和寺には何度か訪れていたが、 「天神様の細道」がここに通じていたとは露知らなかった。謎解きのキーワードは平安時代、藤原氏、宇多天皇の3つである。 仁和寺は888年に宇多天皇によって創建され、上皇となった後はここに御室御所を置いて院政を行ったところである。 その伽藍の建造物は国宝や重要文化財の指定を受け、広大な境内は御室御所跡として史跡に指定され、 ユネスコの世界文化遺産にも登録されている。最盛期には8km四方の寺域を誇り、応仁の乱では西軍の軍勢をすっぽり収容出来たという。 これほどの規模の寺院建立を可能ならしめた権力は、並の天皇では持ち得なかったものと考えられる。
平安時代とは794年に桓武天皇が京都に都を遷してからの約400年間を指すが、道真が活躍したのはその始めの100年目ぐらいの頃である。 平安時代といえば、源氏物語、貴族達による絢爛たる王朝絵巻、平和な時代というイメージが強い。若い人には「おじゃる丸」の時代と云った方が判りやすいか。 しかし、その政治史の裏側では、氏族間の権力争いが絶え間なく続き、それらはすべて藤原氏対反藤原の図式で説明づけられる。平安史のどのページをめくっても、 藤原氏、藤原氏が出てくる。
古代の王家の婚姻基準は、現代の常識とはあまりにも異なるので、その是非を問うことは出来ないが、 王家の血を濃くするため異母兄妹同士や、叔母と甥同士の結婚は当たり前とされていた。出来るだけ早く世継ぎを確保するために、 子供の頃から「お添臥」を付けたり、13歳位で結婚させたりした。娘を入内させたが世継ぎが生まれないので、その母が入内する例まであった。
王家との婚姻に成功し、王母になった氏族が政権を握ることが出来たので、まさに呪物的ともいうべき「血」を残すための競争が行われた。 これに王族の中の皇太子(弟)競争がからみ合って「○○の変」と呼ばれる数々の陰謀が事件化している。このような手段で次々に 他氏を排斥し摂関家と云われる地位を獲得したのが藤原氏であった。藤原氏の実力者の意向を無視しては、皇太子の決定は出来ないほどになっていた。
平安時代を通して32人の天皇がいたが、昔の皇国史観の歴史では個々の天皇についてはあまり触れたくなかったのだろう、 学校ではお経のように名前だけを丸暗記させられたものだ。今は若い研究者によって面白い資料がどんどん発表されている。 例えば、桓武帝は23人の妃を持ち、毎日35人の子供の遊び相手をしながら、身辺を世話する采女には「うえの袴」を付けさせていた。 ノーパンシャブシャブの元祖である。この他,宮中で殺人を犯したり、明らかに精神異常者の天皇もいた。昔ならこんな話は不敬罪となるだろう。
子供の頃、花電車が都内を走り、日の丸の小旗を振って「紀元は2600年、ああ一億の・・・」と歌ったことを覚えている。 国民は天皇家の「血」が万世一系で繋がって来たことになんの疑いも持っていなかった。先日、雅子妃が愛子様のお誕生を涙を流して喜んでいる姿を見て、 私も共に癒される思いを感じた。同じ様に皇室に親しみを感じている日本人は多いと思うが、「何故、初詣に行くの?」と同じでその根拠は口で説明できるものではない。 物事には知らないほうが良いこともあるが、1000年も昔の歴史事実を知ったために日本人の皇室観が変わることはないだろう。
世界史を見ても、日本の天皇家のように千何百年以上も続いた例は皆無である。君臨すれども統治せず。統治して大きな失政があれば王朝は滅びる。 平安朝以降、自ら政治を行った天皇はそれ程多くない。昔の歴史教育では、親政を行った天皇はみな英帝扱いをされているが必ずしもそうとは限らない。 宇多天皇は、藤原氏の横暴にストップをかけた天皇として有名である。しかし、私は国家の政治形態としては、天皇は支配権の象徴的存在というのは、よく出来たシステムだと思う。
宇多天皇の父光孝天皇に皇位が巡ってきたのは全くのハプニングからである。16歳の陽成天皇が清涼殿で乳兄弟を殺害するという未曾有の事件 を起こし退位に追い込まれた。摂政の藤原基経は藤家内部の勢力争いから傍系の55才の老王を即位させた。 光孝天皇は間もなく臣籍降下していた7男の源定省に譲位する。光孝死去の前日に親王に復帰、翌日立太子・即位というあわただしさであった。 これが宇多天皇であるが、こんな事は天皇制の歴史において他に例がない。
天皇はこの時すでに学問の師である文章博士橘広相の娘との間に2人の世継ぎを設けていた。即位後直ぐ、阿衡の紛議と呼ばれる藤原氏の他氏排斥が起きる。 このいやがらせ事件の目的は、橘氏の排除と基経の娘を入内させることであった。宇多天皇は「今、乱国の主として不日に愚慮をいたさざるなし、 万機を念もうごとに、寝膳安からず。爾来、玉茎不発、ただ老人の如し。精神の疲極により、まさにこの事あるなり。」という日記を残している。 天皇は藤原氏の血を引く世継ぎを作ることを拒否したのである。これに対して左大臣が露蜂(ロイヤルゼリー)を進上している。
太政大臣基経が逝去すると、藤原家の専横を憎んだ天皇は、菅原道真をブレーンとして親政を宣言する。基経の長子の藤原時平はこれに異議を唱えるには余りにも若過ぎた。 道真が天皇に遣え始めたのは46歳の時であるが、スピード出世を続け、わずか8年で位階は正三位、右大臣になる。道真が国政のトップとして政策を実行できるようになった。 道真の能力と識見は群を抜いていたが、そのあまりにも早い出世は多くの貴族達の嫉みを買っていた。この時、藤原時平も左大臣になっている。
宇多天皇は10年間政治をとった後、醍醐天皇に譲位するが、尚上皇として政治を監督する。宇多院の側近として道真の最も幸せだったときだったであろう。 前稿で紹介した名歌は上皇のお供で、奈良の東大寺裏手、手向山八幡に詣でたときに詠んだものである。 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに(意味)このたびは神に捧げる御幣も有りません。 手向山八幡の神よ、きれいに色づく紅葉これを神様に手向けます。神の御心のまにまにうけとってください。
その後、藤原時平は妹を醍醐天皇のお后に入れることに成功するが、なかなか皇太子が生まれない。一方、王弟斎世親王と道真の娘との間には源英明が生まれてしまう。 これは政権奪還を狙う藤原氏にとっては非常にまずい状況である。そこで例によって藤原氏の他氏排除の陰謀が起こる。 つまり道真の大宰府配流事件である。宇多法王は処分を撤回させようと急いで御所に駆けつけるが、天皇に会わせてもらえなかった。 私は「東風ふかば・・・」の歌には、マッカーサー元帥のマニラ宣言 ”I shall return”という意味が隠されているように思えるのである。 903年、道真配所で病死、59歳。
歴史は勝者によって作られるというが、たとえ道真の業績がいかに高かったとしても歴史からは消し去られる運命にあったことは容易に察しられる。 大事なのはこの時代に藤原氏以外の政治家が改革をなし得る地位についていた事実、そして道真が儒教思想にもとづく善政を指向した最後の政治家だったことである。 このことは天神信仰の発生の理由の一つとなった。
794年の遣唐使の廃止については、道真が提案したことはほぼ間違いないだろう。「荘園の整理政策」は宇多天皇の寛平の治から醍醐天皇の延喜新制にも受け継がれている。 この時代の「奴隷の廃止」も道真の善政とする説もあるが、もしそうなら西欧に先立つこと1000年も昔に日本は人道的政策を行ったことになる。
ここまでお付き合い頂いた方は、なぜこんなに回り道をするのかといらいらされたかもしれない。しかし道真の足跡や業績については、 彼とかかわりのあった人の記録から推測するしか他に方法がないのである。
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●坂本 互(さかもと わたる)
元タクシーサイト代表取締役社長、現在タクシーサイト顧問 元タクシー問題懇談会会員 元イースタンモータス常務 株式会社システムオリジン顧問 東京におけるタクシー向けコンピュータシステムの草分け的存在
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