2月25日は菅原道真公の祥月命日である。 1100年目のこの日、湯島天神は梅祭りも終わりに近ずき、 境内には猿回しまで出て大変な賑わいだった。私は満開になった梅林の床几で甘酒を飲みながら、 以前、修学旅行の女子学生と話し合ったことを想い出していた。 天神様が学問の神様、受験の神様であることを知らない日本人はいないだろう。 ところが不思議なことに、その祭神の菅原道真について、 その全貌や業績を知る人はほとんどいない。実は、私もその一人だということに気が付いた。 東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな 殆どの人が、菅原道真が大宰府に左遷された故事をこの和歌を通して知っている。 福岡の大宰府天満宮に詣った人は、そこで都から「主」を追いかけた「飛び梅伝説」の証拠を見ることになる。 「こち」は今では死語になっているのに、漢字変換キーを押すとちゃんと「東風」と出てくるのには驚く。 いかにこの和歌が人口に膾炙しているかを示している。しかし殆どの人が道真について知っているのはここまでであろう。 なお井上夢間氏の研究では、マオリ語の「コチ」には、「bloom、花が咲く」という意味があり、この他にも ポリネシア語起源の日本語は多いという。NHKで「日本人はどこから来たのか」という特集をやっていたが、 母音で終わる言語という共通性があり、注目すべき説である。詳しくは、 「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/ をご参照あれ。
私が子供の頃を過ごした福井の田舎では、正月の遊びとしてかるた取りが盛んだった。坊主めくりではなく、 「小倉百人一首」を上の句だけでとる競争である。今でも半分以上は覚えているが、 その中に名句といわれる菅原道真の歌があった。
このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
子供にとってこの歌は全くの難物で、ただ丸暗記するしかなかった。なんとなく尋常ならざるおどろおどろしさを感ずるのか、 他の人は覚えたがらなかったので、労せずしてこの歌は私の十八番になった。 菅原道真についての私の知識も、結局「通リゃんせ」をいれて3つの歌でお終いとなる。
今までそれ程不思議と思わなかったが、考えてみれば菅原道真については解らないことばかりである。 その生涯でどんな業績をあげたのか。人である道真がなぜ神になれたのか。全国各地に勧請された分社が 12000社もあるのは何故か。死後 1100年も経っているのに、こんなに多くの人に拝まれているのは何故か。 では、この謎に挑戦してみよう。
菅原家は代々学者の家柄で知られ、道真の父是善は菅家廊下(菅原家の私立大学)を率いる当代第一の学者であり、 後に文章博士、参議(閣僚)を勤めた。 菅原道真は845年、是善の三男として、京都菅原院に生まれる。5歳で和歌を読み、14歳の時に詠んだ詩は、 当時の第一級の詩歌を載せた『和漢朗詠集』に採用されている。 式部省の実施する文章生、文章得業生の合格最年少記録を作り、数年に一人という超難関の国家試験である方略試に若冠26歳で合格、 エリート官僚への道に進む。外国使節の接待などを担当する役所の次官となり、渤海国使節団の接待で頭角を現す。 30歳で従5位下に任じられ、貴族に列せられる。兵部少補(軍務省次官)、民部少補(大蔵省次官)を歴任する。彼は税制や経済にも通じていた。
33歳の時、式部少補に転じ、文章博士も兼ねる。式部少補は国家の礼儀・儀式・文官任用・ 人事考課を司る式部省の次官、文章博士は学者の最高位である。文章博士は大学で、学問を教授するほか、 国家試験の試験官もつとめたため、学閥間の争いに直面しなければならなかった。道真の背後には、 菅家廊下の門人達が中央官僚として活躍しており、ここから出た秀才や進士は100名にのぼり、世に「竜門」と呼ばれた。
41歳の時、大国である讃岐守(香川県知事)に任じられたが、従4位以下では異例のことである。 しかも赴任の際には太政大臣藤原基経や光孝天皇の拝謁を賜っている。また国司としての任務の他に、 地方の庶民の実状を調査する問民苦使としての任務を兼ねた。当時、大化の改新から続いた律令制は財政的に破綻しつつあり、 根本的な改革を行う必要に迫られていた。当世第一の学者であり、優秀な行政官僚でもあった道真はまさに中央政府の期待の星だったのである。
また讃岐守時代は道真の詩の境地、詩境が著しく向上した時でもあった。それまでの漢詩は、 彼の広大な学識を誇る学者の詩であった。それが讃岐守の時代を経て、より深い内面を映し出す「詩人の詩」となるのである。 貧しさと飢えに苦しむ一般庶民について詠んだ「寒首十草」は連作漢詩の傑作といわれ、平安の貧窮問答歌と言われる。 そのほかにもさまざまな秀詩を詠んでいる。
ここまでの道真の経歴を見れば、彼が「受験の神様」であることに異論はないだろう。 平安時代もこの頃になると、万葉仮名の和歌全盛から、貴族階級では漢文詩隆盛の時代に入る。道真はこの時代の漢文、 漢詩の第一人者であった。しかし私は「学問の神様」としては、他にもっと凄い大人物が居ると言いたい。それは、道真の少し前に、 現れた弘法大師・空海である。 湯川秀樹博士も空海について次のように述べている。
『まあ長い日本の歴史の中でも、空海というのは、ちょっと比較する人がないくらいの万能的な天才ですね。 そこまでは最近、再認識されだしたが、私はもっと大きく、世界的なスケールで見ましても、上位にランクされるべき万能の天才だと思うのです。 世界的に見ましても、アリストテレスとかレオナルド・ダ・ヴィンチとかいうような人と比べても、むしろ空海のほうが幅が広い。 また当時までの日本の思想・文化の発達状況を見ますと、思想・芸術、それに学問・技術の諸分野で時流に抜きんでていた。 突然変異的なケースですね。』
空海は、24才の時には「三教指帰」で、儒教・道教・仏教の三つの教えの比較を行っている。31才で遣唐使の留学僧となり、 わずか2年で真言密教をマスターしたばかりか天文・地勢・土木・医薬等の万能の知識文献を修得して日本に持ち帰った。 彼の歩いた全国津々浦々に「お大師さん伝説」が語り継がれている。また、驚くなかれ、漢字の音表文字ひらがな「いろは」や カタカナ「五十音字」も空海の業績なのである。
幾重にも連なる紀州の山並み。その奥深く、高さ1000メートルのところに突如開ける盆地、高野山。今日の町の雑踏を離れて、 空海は最後にこの地にこもった。今この高野山には百幾つもの寺がある。空海の教えを学んで、多くの僧侶たちが、修行に励む、 真言密教の聖地である。835年、空海入定。62才。10年後生まれ変わりのように菅原道真が誕生している。 平安の中でも、特に9世紀の日本には、時空間に異次元の力が働いていたとしか考えられない。
道真が国司に任じられたのは、空海が生まれた讃岐である。そこには空海が最新土木技術を駆使して修築した満濃池の巨大な眺めがあった。 道真を重用した宇多天皇は密教僧としても一流で、後に真言宗御室派の開祖となる。「弘法大師」は存命中の名前ではなく、 入定後87年目にして醍醐天皇から高徳をしのんで贈られた諡号である。そして醍醐天皇こそ道真が最後にお遣えした天皇なのである。 天神様からは大分脱線してしまったが、空海と道真、この二人には深い因縁があるような気がしてならないのである。
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●坂本 互(さかもと わたる)
元タクシーサイト代表取締役社長、現在タクシーサイト顧問 元タクシー問題懇談会会員 元イースタンモータス常務 株式会社システムオリジン顧問 東京におけるタクシー向けコンピュータシステムの草分け的存在
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