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今日9月4日、東京ディズニーシーがオープンした。2つのテーマパーク、ショッピング施設の数々、 そして、2つのディズニーブランドホテルを中心とした5つのオフィシャルホテルが集まった滞在型「東京ディズニーリゾート」の誕生である。 リゾート(RESORT)は日本語では行楽地や保養地と訳されるが、語源はラテン語で「再び出かける」、人々が何度も足を運ぶ場所のことである。 自分の住む街にこのような「テーマリゾート」が出現したことに浦安市民が、どのように関わったのか、自分の体験も交えて振り返ってみたい。 私はこと住宅に関しては運に恵まれていたと思う。今でこそ小泉内閣は「民間で出来ることはすべて民間で」などといっているが、 戦後公営住宅はなかなか当たらない籤の代表格であった。調布市の公団の分譲住宅が当たったのは東京オリンピックのすぐあとの頃で、 それこそ宝くじのような倍率であった。 場所は、多摩川のほとりで深大寺にも近く緑もたっぷりあった。買い物にも便利で生活環境としては申し分なかったが、 子供2人が大きくなるにつれ少々手狭になっていた。 その頃ニュータウン計画が各地で始まっていたが、多摩、横浜市、千葉県の公営住宅への申し込みはことごとく外れてしまった。
民間の大規模団地サンコーポを見学に来た時、偶然通りがかりに三井不動産の分譲住宅の幟が林立しているのを見かけた。 話を聞いて見ると、会員登録した番号が若い順に優先権があり、人気が高いので平均5年位かかるということだった。 一応会員になって一ヶ月後に抽選会があり、希望者の出なかった3戸を250人で抽選した。又もや宝くじのような幸運で当たったのが現在の家である。 もし公営が当たっていたら一戸建てに住むことはなかっただろう。土地のバブルが始まる一寸前のことで、それから早くも23年が経つた。 ところは千葉県東葛飾郡浦安町で、もともと三方を海と川で囲まれて陸の孤島と言われた土地である。移転通知や年賀状を毛筆で書き始めて、 長い住所に途中でうんざりしたことを覚えている。 真っ先に、子供達をつれて山本周五郎の「あおべか物語」に出てくる境川にはぜ釣りに出かけた。 この間物置を整理していたらその時買った釣り竿が出てきて、小学生だった子供がごかいを怖がったことを思い出した。 今では周五郎の名を知っている人は、昔人間だと云われるようになった。 まだ地下鉄が開通してから10年も経たない頃で、浦安にはデパートやスーパーは一つもなく、行徳のスーパーまで一週間分の食べ物を買い出しに行ったものである。 唯一の交通機関である東西線は、一寸風が強くなるとすぐにストップするというまことに変な地下鉄であった。
今のディズニーランドのあるところは埋め立て地のままで、 捨てられた犬達の棲家となっていて、そこから毎日砂ぼこりがいっぱい飛んできた。遊園地造成は県有地の払い下げを受けるための隠れ蓑だという黒い噂が取り沙汰されていたが、 最初はディズニーランドを誘致する計画ではなかったようである。1960年に設立されたオリエンタルランド社が東京ディズニーランドを経営しているというややこしい関係はその名残りであろう。 当時の笑い話に、「ああなんと不便な田舎に来てしまった。」と嘆いていたらなんと町長が「熊さん」だった。(長期にわたって町長、市長を勤められた熊川さんごめんなさい。)
引越し3年後には人口が5万人を超えて浦安市が誕生し、年賀状の住所書きが楽になった。 東京ディズニーランドが完成したは5年後の1983年のことである。一般オープンの前に浦安市民は2班に分かれて特別招待を受けた。 日本で初めてのテーマパークとあって、老いも若きも殆ど全員が出かけたのではないかと思わせるほどの混み様だった。 朝から晩までがんばっても全部を見ることは出来ないくらい盛り沢山で、豊島園の兄貴分ぐらいに考えていた私には、まさにカルチャーショックだった。 一緒に行った妻も以来ディズニーランドが大好きになり、オーランドまで2回も出かけている。いい齢をして、ミッキーマウスやミニーちゃんの大きな縫いぐるみを幾つも持っている。 私には何故そんなに夢中になれるのか不思議でならない。
開業して直ぐの頃、まだ元気だった田舎の老父をディズニーランドに連れていったことがある。 まだ日本食のレストランがなく、昼食はフレンチカンカンを観ながらサンドイッチを食べた。世話をする方が疲れてしまって、夕方に「もう帰ろうよ」と云ったところ、 パンフレットを見ながら「まだカリブの海賊を見ていない」などと、結局、最後まで元気に見て回った。 今にして思えば、いい親孝行をさせて貰ったものである。それに味をしめて、親類の年寄りを何人かディズニーランドに招待したが、皆子供に帰ったように喜んでくれた。
世界で4箇所あるディズニーのリゾートの中で、東京は年間1700万人のお客を集めて一番の成績を挙げているそうである。 日本の他の大型テーマパークが振るわない中で、ディズニーランドのみが好成績をあげている原因は、客の年齢層が厚いことやリピーターが多いことだといわれるが、 本当はウォルト・ディズニーの夢の偉大さにある。オリエンタルランド社の発表によれば、昨年度の入園者に占めるリピーターの割合が 97.5%に達したそうである。 初めてのお客は3%も居ないということになる。 年間パスポートを買ってディズニーランドに通うために浦安に引越して来た奥さんが何人もいるそうである。 全く信じられない話である。ディズニーランドの成功を見るとき、文化でも宗教でもすぐに取り入れて消化してしまう日本人の特質やバイタリティに驚く。
東西線の駅は、事前のしっかりした都市計画を持たないで作られたところが多い。 浦安駅もご多分に漏れず、駅前に超ミニのロータリはあるものの、商店街は猥雑である。私はかえってこの夜店のような雰囲気が好きである。 1988年にJR京葉線が開通するまでの5年間は、東西線浦安駅だけがディズニーランドへの唯一の最寄駅だった。 TDL行きの直通バス乗り場は500メートルも遠くに離れていために、家族連れは皆タクシーを利用した。この頃の浦安のタクシーの売上は東京よりも多く、 TDLと駅のピストン輸送をするだけで一日7万円を超えたと云われる。夜はTDL帰りの人並みが道にあふれ、露店が並び浅草の仲見世のような賑わいを見せた。 TDLでは日本食がなくお酒も飲めなかったので、おとうさんはビール、こどもは焼きそばという姿が良く見られた。 東京ディズニーランドが出来たおかげで、日本中に浦安の名が知れわたった。ただ前年に東海大浦安が甲子園に出場したにもかかわらず、 浦安が千葉県にあることを知らない人が多く、人口の半分を占める新市民の意識も東京県民と呼ばれるものであった。 今思えば、この最初の5年間だけが浦安市民とTDLの蜜月時代であった。ディズニーランドが浦安市にもたらしたのは、 税収や雇用だけでなく、観光客が落とすお金の経済効果も大きかった。都市としてのイメージが良くなり、土地の値段の騰貴率も近辺の都市よりも高くなり、 アパートの人気も家賃も高くなったといわれたが、今となっては経済効果とはいえない部類だろう。
市民の不満はほぼ交通問題に限られていた。朝の市内の渋滞を避けるため、高速で東京方面から来た車はは迂回させられる。 これは今でも続けられているが、TDKに遠ざかるようにディズニーランド方面という誘導標識がある。私は毎朝、多くの他府県ナンバーが羊のように黙々と指示に従っているのを見ているので、 前記のリピーターの数字が信じられない。何回も来ているのに、騙されるのは私のような方向音痴がそんなにも多いということなのか。 深夜の渋滞は毎日であるが、特に大晦日はカウントダウンの徹夜営業のために、初詣に出かけようとすると、浦安を脱出するだけで一時間かかってしまう。 浦安駅の夜のタクシー不足も酷かった。タクシーはディズニーのお客を運ぶのに忙しく、一般客は一時間位並ぶのは珍しくなかった。タクシー不足を補うために、 夜になると非合法の乗合タクシーが出現した。タクシーの運転手の話では、あれは暴力団の営業で、仕切っているのは元警察官ということであった。 私は何回か利用したが、アマチュア無線を積んでいて、新小岩駅の状況や取り締まり情報なども連絡し合ってなかなか機動的な営業をしていた。
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●坂本 互(さかもと わたる)
元タクシーサイト代表取締役社長、現在タクシーサイト顧問 元タクシー問題懇談会会員 元イースタンモータス常務 株式会社システムオリジン顧問 東京におけるタクシー向けコンピュータシステムの草分け的存在
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