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私は今51歳。タクシー向けコンピュータソフトの専門会社システムオリジンの社長をやらせてもらっているが、 26歳から29歳の3年間、次郎長で有名な清水市でタクシーの運転手をしていた。 1968年に長野県の田舎から大学に入るため上京した私は、当時勃興しつつあった全共闘運動に影響を受け、いわゆる新左翼運動に没頭する事となった。 8年間の紆余曲折の末、自分の政治的器の限界を感じ、政治運動から離脱した。当時の新左翼組織は様々の活動スタイルがあったが、私の所属していた組織は集団生活をしており、 その組織的戒律も非常に厳しく、「やめます。ハイそうですか」という具合にはいかなかった。 すでに大学時代の同級生である女房とは結婚しており、3歳の長男がいたので、示し合わせて文字通り夜逃げを敢行した。女房の実家のある清水市に行き、 女房の家が持っていたアパートの一室に転がり込んだ。とにかく生きていかねばならない。活動の中で3回ほどの逮捕歴があり、 前科2犯になっていた私には、仕事の道が限られていた。たまたま車の運転が好きだったのと、前歴をあまり問われないのではないかと思い、タクシーの乗務員になる事を思い立ち、 清水市内のタクシー会社に応募した。
養成乗務員という事で、日当を貰い、市内の自動車学校で学科の勉強と実地の練習をし、 静岡市の北部にある県の運転免許試験場で第2種普通免許の試験を受けるという生活が続いた。 試験を一回で受かる人はまれで、通常は数回、中には10回以上受けても受からない人がいる。学科は確か90点以上で実地は80点以上だったと思うが、 一つミスをすれば必ず受からない。最初の挑戦で学科は受かったが、奥行きの判断を測る深視力試験という目の試験には苦労した。 箱の覗き穴のようなところから見て、2本の棒の間を1本の棒が前後に移動し、その3本が並んだと思われるところで、ボタンをおして、 真中の棒を止めるのだが、全然合わない。結局受からず、実地試験を受けさせて貰えなかった。悪いことは重なるもので、どこかで財布をなくしてしまい、 バス賃がないので、その日は15キロ近い道のりをトボトボ歩いて帰る羽目になり、俺はタクシーの乗務員さえできないのかと余計みじめに思えた。
2回目の深視力検査の挑戦では少し要領もわかり、また検査官も半分お情けで通してくれたので、実地に進むことができた。実地は人並みに4回目で受かった。 どんな試験も受かるとうれしいものだが、生活に直結するものだけに、本当にホットした。養成中は会社に出社してもしなくてもよい事になっていたが、 毎日出社し、無線室で電話をとる手伝いをした。35台の会社で、無線番は定年過ぎのおじいさんが一人しかいず、電話も全部その人が取る。 トイレに行くときは、無線室は空になる。なんとも呑気だが、それで間に合ってしまう。養成期間中に毎日まじめに出社したのは、 会社はじまって以来、自分が始めてだと言われた。折角日当を貰っている事だし、お客さんの名前も覚えておいた方がいいと思うのだが、これって、そんなに珍しいことなのだろうか?
こうして私のタクシー乗務員生活は始まったのだが、今手元に古ぼけたノートのファイルがあって、それには私のタクシー乗務員初日の日からの記録が綴られている。 日にち、曜日、天候、営収、走行キロ、チップの額(?)、主な出来事が1日1行で書かれ、ページ末にはその月の総営収、総走行キロ、給与額、チップ総額が記載され、 3年間のタクシー乗務員生活が凝縮されている。 この【団塊耕志録】のコラムでは、その記録を頼りに、タクシー乗務員生活の中で感じた事を思うがままに書かせて貰いたいと思う。
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●清野 吉光(きよの よしみつ)
1950年 長野県四賀村生まれ 1968年 上智大学外国学部ロシア語科入学 1971年 上智大学中退。印刷関係、皮革関係など様々な職業に従事 1976年 清水市の日の丸交通入社 1979年 清水市内の学習塾教師(英語担当) 1980年 静岡市内の(株)事務機器センター入社 1982年 (株)システムオリジンを仲間と創業。専務取締役 1992年 代表取締役社長就任 2000年 株式会社タクシーサイト・ドット・コム常務取締役就任 2003年 株式会社タクシーサイト代表取締役社長就任
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