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平成徒然草 - 坂本 互(さかもと わたる)

31稿 「美しき瀬戸内とさわやか山陰旅情(3)」 2003.12.04

『二日目』
 6時15分に朝食、 7時15分出発。1組と2組との時間差が5分。玉造温泉の夕食の時、発表された翌朝の予定に「おうー」という軽いどよめきの声が上がった。早い!。5分刻みの時間割が相当な強行軍を予感させる。この緊張が効を奏してか、遅れた人は一人もなく(旅行会社もなかなかやる)、時間通りに出雲大社へまっしぐら。
 出雲路を昔走ったときには、屋敷の北側に二階まで届く防風のための垣根をめぐらした家が多く見られた。今回、ガイドさんがその説明をするのだが、その実物がなかなか現れなくて困っている様子がおかしかった。これも地球温暖化が進んでいる証拠だろうか。

 出雲大社の案内・説明はお土産屋のおばさんがやってくれたが、お粗末極まりないガイドだった。大社と関係ない地元の有力者が献納したつまらない記念碑を ○億円もかかったなどと得意気に紹介したのに、祭神の大国主命のことを「大国様と呼ばれ縁結びの神様として親しまれております。」だと、我々は腹立たしさを通り越して呆れてしまい別行動をとることにした。

 『古事記』には、国譲り神話として出雲大社の創始にかかわる伝承を伝えているが、平安時代の本によれば、本殿の高さは、奈良東大寺の大仏殿をこえる48mにも達したといわれ、創建時にはなんとその倍の96mもあり、「天下無双の大廈」と讃えられていたという。これらの建物は地震で倒壊し、鎌倉時代に規模が縮小されたそうで、現在の本殿は高さ24mで国宝に指定されている。

 32丈というのはあくまで神話であり、古代にそのように高い建築技術がある筈がないというのがこれまで通説となっていた。平成11年9月から実施された発掘調査で、巨大な柱が発見された。これは3本の柱を鉄の帯で束ねたものと推定され、古代の出雲大社の巨大さが実証された。本殿の前の地面に柱の実物大の模型が埋めてあった。今ではこんな太い大木を探すこと自体が難しい。

 本殿のお参りを済ませ、私は皆を本殿の裏手に連れて行った。ここから眺めると八足門が邪魔にならず、大社造りと呼ばれる独特の構造や千木がよく見える。出雲大社は入り口が向かって右側にあり、お参りの仕方も他の社と違い二礼四拍一礼で、これは天満宮と似ている。共に縁結びの神に祭り上げられているが、私は朝廷に恨みをもつ人の御霊を鎮めるためのやしろではないかと素人解釈をしている。

 私のアマチュアガイドは家族には好評だったが、大急ぎで集合場所に戻らなければならなかった。本当は出雲名物の「割子そば」を皆に味わって貰いたかったが、とてもそんな時間はなく、すぐに出発となった。ここから先のツアーの行程は私にとって初めての土地ばかりで期待に胸が膨らむ。

 昔は石見の国と言われた石州街道を日本海に沿って西へ向かう。道の両側にはどの家もオレンジ色した石州瓦の家々が続いている。関東ではこの高級瓦を使っていると「ああ、あの家は金持だな」と言われるが、ここではどんな小さな家でも赤瓦ばかりである。高速道路がないのは島根県だけと県知事さんが嘆いていたが、本当は裕福なのではないかと疑ってしまう。

 山陰としてはかなり大きな橋を渡る。ガイドさんの説明では、日本で4番目に大きい川で中国太郎と呼ばれている江の川だという。なんだか聞いた覚えがあると思っていたら、丁度その時期に真っ最中の高校野球の島根県代表の校名だった。それからは何となく親近感が湧き応援していたら、なんと山陰勢としては初めて準決勝まで行った。

  鳴き砂で有名な琴が浜も、最近海の汚れからか鳴かなくなったという話を聞いているうちに、仁摩サンドミュージアムの大きなガラス張りのピラミッドが見えてきた。ここには、1トンの砂で一年をかけて時を刻む世界一の砂時計があり、道がカーブしているおかげで正面にその全容が拝める。

 ここまでノンストップで急いだおかげで、丁度お昼に浜田の夕日パークに到着する。ここは日本海に突き出した高い断崖に建てられた見晴らし台で、昼間でもすばらしい景観で魚料理もうまかった。浜田は飛鳥時代にはこの地の中心として国府が置かれており、謎の万葉歌人柿本人麻呂の終焉の地もあるそうだが、市内にはどこも立ち寄らなかった。

 益田市までは又海岸に沿って走った。途中温泉津温泉(ゆのつ)の標識が出ていたが、日本一の石見銀山の湯治場として、また大国主の命が皮をむかれた兎を治療した湯として有名である。山陰では温泉の出ない町を探すほうが難しい。この地には雪舟が晩年を過ごし87歳の生涯を閉じた寺がある。

 益田から南へ川に沿って山道を行き、峠を越えて津和野に出る。道々、三須さんが悲恋の城主・坂崎出羽守の物語をしてくれた。彼は大阪夏の陣で、家康の「千姫を助けだした者には姫を与えん」との命に従い猛火の中から千姫を助け出した。その戦功で津和野4万石の城主になったが、千姫は本田忠刻に再嫁することになった。姫を奪おうとした出羽の守は自刃してはてた。

 ここでもガイド役はお土産屋の番頭さんだったが、講釈師のような名調子で出雲とは大違いだった。彼嘆いて曰く、「ガイドブックではたいがい萩・津和野と一纏めにされているので、津和野は萩観光のさしみのつまにされて、殆どの人が通過するだけになってしまう。津和野は山陰の小京都といわれているように島根県の最西端にあり、決して山口県ではありません。」と変なところを強調していた。

 案内されたのは中心の殿町だけだったが、多くの史跡が残り堂々と続く白壁が美しい。土塀のそばを流れる掘割には菖蒲が植えられ錦鯉が泳いでいる。大きいのは1メートル以上胴回り70センチとお化けのようなのがいたが、鯉ヘルペスで日本中大騒ぎしている現在も無事でいるだろうか。

 堂々とした家老の屋敷の門をくぐると、なんとここが津和野町役場。藩士の師弟を教育するための養老館は、現在も図書館として現役だった。津和野を代表するこの風景もあの出羽の守の残した物である。わずか十六年の治世であったが、津和野に多くの功績を残した。

 峠を越えるとそこはもう山口県の萩市で、成る程津和野とはほぼ地続きとなる。松蔭神社はそのはずれにあった。松下村塾は2部屋に土間がついた、炭小屋を改造した簡素な平屋建てで、これが明治維新の原動力となった偉大な学舎とはとても思えない。しかも吉田松陰が教えていたのはたった2年半だったとは。

 市内に入って武家屋敷を徒歩で観て歩いた。建物が昔のままに保存されていて、そこでは普通の人の生活が営まれている。津和野や石川県金沢の武家屋敷でも同じように、古いままの家屋敷に人が住んでいる。私は子供時代を福井の田舎で過ごしたので、日本海側の冬がどれほど厳しいか知っているが、古い建物で冬を越す労苦は経験した者でなければ分からないだろう。あの小泉八雲も一冬で松江から逃げ出している。

 萩の街はほんの一端を歩いただけだが、平屋が多く昔ながらの城下町の雰囲気がそのまま残っている。更にもう一日をかけて見て歩きたい気持ちにさせる何かがある。きっと、それは県都の地位を山口市に譲ったせいだろう。お土産屋のそばの屋台で呑んだ地ビールの生は忘れられない味となった。泊まりは萩グランドホテルだったが、食事はふぐづくしでこの料金で申し訳ないという思い。品数は多いが量が少ないのは私向きだが、若い人にはちょっと物足りないみたい。案の定、夜お酒を買いに出かけた。

第30稿 「美しき瀬戸内とさわやか山陰旅情(2)」 も読んでみる

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坂本 互(さかもと わたる)

元タクシーサイト代表取締役社長、現在タクシーサイト顧問
元タクシー問題懇談会会員
元イースタンモータス常務
株式会社システムオリジン顧問
東京におけるタクシー向けコンピュータシステムの草分け的存在

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